都市デザイン(アーバンデザイン)の現場

  • ● 日本の都市デザイン(アーバンデザイン)
  •  アーバンデザインという言葉は、日本では1960年頃より、都市の未来像を描く建築家達によって使われたのがはじめだと思います。

     大学で建築を学び始めた頃で、建築雑誌を巨大建築物などの絵が華々しく飾っているのを見て、こういうのをアーバンデザインというのか、未来の都市はこうなのか、この中でどのような人間的な生活が成立するのかなど、漠然とした疑問を持ちながら眺めていたことを思い出します。

     現実の都市を対象にしたアーバンデザインの取り組みは、1960年後半になって、横浜市が個性や魅力を創り出す街づくり進めるため、具体的な活動を始めてからのことになります。

     活動を始めた田村明さんは、都心部の関内地区に計画された高架の高速道路を地下化することに取り組み、「大通り公園」を誕生させたことに始まります。

     そして、企画調整局にアーバンデザインチームを編成して、本格的に活動を開始しました。

     同じ頃、金沢市や倉敷市、京都市や神戸市などは、歴史的景観を保全する条例を制定して、個性と魅力を守る取り組みを始めています。

     (横浜市では、当初「アーバンデザイン」という言葉を使用していましたが、分かり易く日本語でという議会からの要望を受け、「都市デザイン」にしましたが意味は同じです)

     現在では、社会経済状況をはじめ街づくりを取り巻く環境は、横浜市が挑戦的に取り組み続けてきた頃とは大きく変っています。

     専門分野として都市デザインのような名称の学部や学科のある大学もありますし、「景観法」という法律も出来ています。
     都市の状況にもよりますが、街づくりの取り組み方も変わってきていると思います。

     しかし、個性と魅力ある都市環境を育くむためには、新しい価値を創り出す「創造活動」として取り組む姿勢が大切です。

     このホームページは40年あまりにわたって、様々な現場で都市デザインの活動を体験してきた「実践的都市デザイン」の報告です。
  • ● 都市デザイナーへの道            
  • 都市・建築・土木/計画・設計・事業


     修士課程修了後、大高建築設計事務所で最初に担当したプロジェクトは、東京郊外の計画人口30万人の多摩ニュータウン計画について、緑豊かな多摩丘陵の自然地形を生かした開発をする研究でした。

     このミッションは、通常行われている、地形を平坦に大造成して羊かん型の住棟を並べる開発手法でなく、丘陵の自然地形を生かした住宅地開発の研究と、それによるニュータウン全体計画の作成でした。

     そのため自然地形を生かして、道路などの土木施設や、住宅や学校などの建築施設を、一体的に捉えた計画と設計が必要でした。

     都市計画や土木系のコンサルタントではない建築設計事務所が、日本で初めて都市計画を手掛ける仕事でした。

     建築、都市、道路、交通、造園、供給処理などの専門家で構成するプロジェクトチームによって、自然地形案を作成、検討しました。

     その結果、大造成案と同等の事業費など、開発が可能という結論を得て、全体計画を作成しました。

     しかし、実現すれば画期的な街になるはずだったこの提案は、採用されずにお蔵入りをしてしまい、チームの取り組みは挫折で終わりました。

     一方「都市計画学会」による「多摩NTセンター地区」の計画づくりにも携わりました。

     いずれも、建築と都市を総合的に捉えて計画、設計するプロジェクトで、様々な分野の専門家との議論を通じて、都市と建築に関わる多くの知識や考え方を学ぶことが出来た貴重な経験でした。

     その後、建築の設計などに携わった後、恩師の武基雄教授の研究所で建築の設計や観光開発計画、再開発計画、ニュータウン計画の作成などに携わりました。

    ・ 街づくりの実践/市民生活の場のデザイン

     建築の設計は、比較的短期に確実な成果が得られるのに対し、街づくりなどの計画は、関係者も多く、結果に結びつくまでに長期の時間がかかり、その間にさまざまな要因によって内容も変化します。

     都市空間の質に対する見識をもって、街づくりのプロセスに継続して関わることが出来る立場でないと、一定の質を有する、意図する結果につなげることが難しいということを実感していました。

     そのような折、港北ニュータウンセンター地区の基本設計を、横浜市のアーバンデザインチームが、直接行う作業に参加する機会がありました。

     そして、このことがきっかけになって、横浜市のアーバンデザインチームに招聘されました。

     地方自治体という一定の地域に責任をもつ立場で、街づくりに関わり、市民生活の場をデザインする手ごたえを現場で感じながら、本格的にアーバンデザインの活動に取り組むことになりました。

    ・ 横浜での活動/実践の現場

     横浜の様々な街で、現場の状況や動きに応じて、アーバンデザインの活動を実践しました。

     当時の日本の街づくりは、機能性と経済性の価値が最優先される事業によって進められ。快適性や美しさなど都市空間の質の向上を図るような配慮はご法度の時代でした。

     しかし横浜市は、街づくりを進めるにあたってそうした質的価値の重要性を強く認識し、先ず街の中に魅力的な空間を具体的に実現し、市民にその価値を実感してもらうことから始めました。
     
     こうして、港町横浜を代表する「関内地区」からはじめたアーバンデザインの活動は、徐々に地域的に広がり、取り組みのテーマも増えていきました。

     横浜市では、アーバンデザインを都市デザインと言い方を変えましたが、徐々に日本各地の都市で、名前はさまざまですが同様の取り組みが行われるようになりました。

     市役所の体制はたびたび変動し、都市デザインチームの立場や活動方法は変化しましたが、22年半に亘って一貫して都市デザインにこだわることによって、さまざまな多くの街づくりに携わることが出来ました。

     (詳しくは「横浜の現場」の項を参照して頂ければ幸いです)

     

    ・ 佐世保での活動/実践の現場

     横浜市を定年近くまで勤めた頃、佐世保市から声がかかりました。

     それまで2度ほど訪れたことがある街でしたが、何よりも街づくりの現場で都市デザインの活動に携わることが出来る魅力に惹かれ、招聘に応じました。

     横浜市と佐世保市は共に、明治時代、国策による開港によって誕生した港街です。

     しかし現在の、首都圏の大都市である「商港の街」と、西の果ての地方都市である「軍港の街」としての違いを体感しつつ、取り組みの共通のテーマは市民生活の場をデザインすることでした。

     横浜市は、港と街が一体となって発展してきましたが、佐世保市は、歴史的地理的に、軍港と市民生活の場である市街地とが、直接接していませんでした。

     しかし近年になって、港に中心市街地を結びつけるという開港以来の大事業に取り組んでおり、私が赴任した時は、すでにその最終段階の時期でした。

     7年間の赴任中、このプロジェクトをはじめ、さまざまな街づくりの課題に取り組みました。

     (詳しくは「佐世保の現場」の項を参照して頂ければ幸いです)

デザインとしての都市デザイン